つがる時空間

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岩木山・山麓に広がる菜の花畑

黄色い花絨毯を敷きつめたような菜の花畑が、鰺ヶ沢町の山田野地区にあります。

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この日は、澄んだ空気に晴れ渡った空が青くて絶好のロケーションでした。
br />地元の農家さんが植えて、ご厚意で見学させてくれます。 
そのせいか、ちょっと道がわかり難い。
県道を行ったり来たりして、ようやくたどり着けました。

    宮澤賢治が訪れた地


山田野地区 は戦後に開拓されたのですが、
それ以前は軍の演習場でした。
岩手県出身で『銀河鉄道の夜』などの作品で有名な宮澤賢治が、
弟の清六さんを訪ねて、 山田野地区に近い鳴沢駅に降り立ったのは、
大正14年(1925)。

清六さんは兵役に就いて、
山田野の演習場にて、厳しい訓練のさなかでした。

宮澤賢治は生前ほとんど無名のまま、
トランクいっぱいに書き溜めた原稿を清六さんに託して、
昭和8年9月21日に37歳で没しているのですが、
とても仲の良い兄弟だったようです。

賢治より9歳下の青六さんには『兄のトランク』と言う著書があり、
山田野の様子をこんなふうに。

《岩手から入営した歩兵は
弘前の三十一聯隊に入ることになっていて、
毎年何回かこの山田野という
荒寥とした野原で烈しい訓練を受けるのが例であった。
 
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そこには地獄谷とか特命の森とか
特殊な軍の用語でなづけられた変化のある地形もあって、
この野原で兵隊は毎日疎開し、分散し、早駈けで前進し、
匍匐(ほふく)して突撃したりして、体力の限りを尽くして一日が終わるのであった》

なかなか厳しい訓練だったようです。
早駈けにほふく前進、体力の限り……読んだだけでへとへとです。

賢治がわざわざ列車を乗り継いで山田野まで来たのは、
手紙の返事がこないので
弟が病気で参っているのではないかと案じてのことでした。

ふたりは無事に会えて、
酒保で売っていたピーナッツやパンを食べ、葡萄酒を飲んで話に花を咲かせました。

兄弟が再会できて、私もほっとしました(*^_^*)

その当時の兵舎が一棟だけ残っています。

兵舎

かつての9兵舎。
ぼろぼろですが、それもそのはず100年以上も経過しているからです。

     戦後は開拓地に

戦後、樺太満州に渡った方々が
日本に帰還するようになると、
山田野は開墾地として解放されました。

この兵舎は戦後、入植者のための寮になり、さらに学校にも。
農機具は鍬や鋤の時代。
とても厳しい暮らしだったそうです。
いまも兵舎は個人の倉庫として、農機具を収納。
現役です。

菜の花畑は陽を燦々と浴びて、
風にかすかに揺れるばかり。
ここが演習場だったことも、
戦後の一時期にアメリカ軍に撤収されそうになり、
地元で反対運動が起こったことも語りません。

どこまでも平和でのどかな風景が広がっていました。



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