弘前の名所めぐりに欠かせない長勝寺、
久しぶりに訪れました。
どっしりとした三門。
国の重要文化財です。
前に、吉永小百合さんが、JR東日本の「大人の休日倶楽部」でこの門の前にたたずんでいたポスターがありました(・∀・)
禅林街の入口にある門から数えて三番目の門なので、三門。
三解脱門とのことです。
このたび、300円の拝観料でガイドさんに解説をしていただきました。
とても流暢なガイドさんです(*^_^*)
改修を終えた本堂と庫裡
三門を背にしたときの禅林街の風景。桜の時期はさらに風情がありますね。
私が前回、訪れたときは大改修の最中で、本堂を大がかりに工事をしていました。
そのとき、文化庁の専門家による講座を聴講。
国の重要文化財、維持のための改修工事とのことで、足場を組んで、たくさんの職人さんを全国から集めていました。
屋根は青森ヒバから作った薄板を15万枚張り重ねた、『こけら葺き』で、優美な曲線です。
こちら庫裡(くり)で、入口となっています。
内部もすがすがしい空間でした。
畳敷きの間が広くて。
内部は撮影禁止。
天井の梁や床板も、創建当時のまま再現され、格式の高さを実感しました。
「改修前は、コウモリが飛んでいた本堂だったんですよ」
ガイドの女性がそう説明してくれましたが、そんなことが信じられないくらいに
きれいに掃き清められ、心が落ち着く本堂です。
ずっとここに、居たいヾ(´ω`=´ω`)ノ
でも、ガイドのおばさまに促され、外へ。
承祜公のミイラで有名
長勝寺と聞いて、ミイラを思い起こす方もいるかもしれません。
12代の殿様になるはずだった承 祜(つぐとみ)公は、書をたしなみ、墨絵もたいへん上手でしたが、18歳の若さで夭折なさいました。(*承祐と表記する方もあります)
「母君が、とても悲しまれて、報恩寺に木炭100俵とともに石の棺にて埋葬しました。
弘前藩は後継者がいなくなり、九州の細川家から養子を迎えました」と、ガイドさんが説明してくれました。
(木炭は湿度の調節や、空気の清浄に効果があります)
昭和29年
報恩寺にあった津軽家の墓所を長勝寺に改葬した際のことです。
作業中、思いがけなく石の棺に入れられたままの承祜公が発見されました。
当時は大ニュースになったそうです。
若君のミイラと……。
石の棺に白い漆喰が塗られ、木炭をぎっしり詰んであったからでしょうか。
ご遺体は損傷が少なかったそうです。
その後、平成7年、荼毘に伏され、法要も営まれました。
その石の棺は見学できます。
今の寝棺と違い、座った形でのお棺です。
本堂の手前のところには、副葬品の絹麻の帷子や、和歌集などがガラスケースに納められています。
直筆の書と墨絵もありました。達筆な書で、秀才とのことです。
天保9年2月23日(1838年3月18日)に生誕、安政2年7月28日(1855年9月9日)に逝去された若君でした。
桃に砂糖をまぶして食したところ、病になられたとか。
胃腸の弱かった方なのではと、私は思いますが、
当時は、赤痢などの病気も多く、薬がない時代なので、命を落とされたのでしょう。
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貴重な文化財がいくつも
敷地の奥にある歴代藩主や満天姫(まてひめ)の霊廟も、見事な造りです。
満天姫は徳川家の養女として、二代藩主信牧(のぶひら)公の許に嫁がれた奥方。
弘前藩の存続のため, 弘前八幡宮の勧や、国替えの話が合ったとき徳川家との架け橋となるなど逸話が残っています。
釣鐘は室町時代のもので、こちらも国の重要文化財。
永平寺と同じ年代のものだとか。
長勝寺は大永6年(1526)に大浦光信公によって建立され、慶長15年に津軽為信公が菩提寺としてこの地に移築。
それから400年以上、一度も火災に遭っていないため、貴重な文化財がたくさん残りました。
釣り鐘も時代は古く、文化財です。
こちら百沢(ひゃくたくじ)寺から移された伽藍(がらん)。
三体の仏様で岩木山 を現わし、とても由緒ある伽藍ですが、設置のとき天蓋部分を壊したため、重要文化財の登録から外されたそうです。
たくさんの羅漢(らかん)さまに取り囲まれていました。
境内は緑の木々も美しく、心が落ち着きます
長く弘前に住んでいますが、
じっくり見学したのは初めて。
見どころがたくさんで、
長勝寺が弘前の誇りということが理解できました(*^_^*)
2018年6月19日記事を更新しました。
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