津軽のパワースポットである川倉地蔵尊へ行くには車が便利ですが、津軽鉄道を利用することもできます。
津軽鉄道・芦野公園駅
写真は芦野公園の旧駅舎。
お洒落で、かわいらしいデザインの建物です。
昭和5年(1930)から昭和50年(1975)まで、津軽鉄道の駅舎として利用。
今は、かなぎ元気倶楽部が運営する喫茶室『駅舎』となっています。
屋根にペンキが塗られて、ぴかぴか。
2014年、国の登録有形文化財になりました。
芦野公園は桜の名所で、キャンプ場もあります。
古くからの霊場・川倉さま
さて、キャンプ場の対岸には、古くからの霊場として信仰を集める
賽(さい)の河原 川倉地蔵尊が、しずかに建っています。
駅から歩くと、25分くらいでしょうか。
恐山とならぶ霊場で、戦前には大祭にて、津軽のイタコが、
数十人も集まり、口寄せをしたそうです。
直木賞作家の長部日出雄先生がイタコについて書かれた本があります。
また、津軽三味線の発祥の地とも云われます。
それは、岩木川沿いの神原村の仁太坊という盲目の三味線弾きが、
この大祭で人気を博し、津軽三味線のルーツを築いたからです。
立派なお堂です。
中へ入ってみます。
満ちる鎮魂の念
人々の苦しみを救う地蔵菩薩(じぞうぼさつ)が、迎えてくれます。
手を合わせて、「お写真を撮らせてください」と、お願いをしました。
無限の大慈悲の心で、人々を包みこむ菩薩さまです。
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お堂のなかは、私ひとり。
前にも来たことがあり、これで3,4回目でしょうか。
大祭のときもありましたが、たいていはひとりでお参りします。
大本尊の後ろのほうに、、亡き人のご供養に納めたお地蔵様が何百体もあります。
写真には写っていませんが、故人のお着物や遺品もたくさんあり、ここに納めてお焚き上げをしてもらうと、ご供養になるのです。
「生前に着ていた物をあの世でも着たいだろうと、ここから送ります」
ずいぶん前に、寺務所にいた世話役と僧侶の方にそう伺いました。
亡き人が好きだったからと、スキー板や盆栽の本などさまざまなものが納められます、とも。
化粧地蔵や、きれいな着物の地蔵さんたち。
大小合わせると、2000体だそうです。
どうしてこれほどの数があるのでしょう?
津軽は、地蔵信仰の篤いところです。
昔から、過酷な労働 や貧苦によって、命をなくした家族の霊を慰めるためであったに違いありません。
太宰治の生家のように富裕な家もありましたが、
腰切り田に胸まで浸かって、農作業をして、生きていた人のほうが圧倒的に多い。
津軽には「借子(かれご)という小作制度や借子がありました。 農奴のような過酷な奉公先が少なくなかったとのこと。また、奥津軽をテーマにした児童文学の名作もあります。
鈴木喜代春さんの『十三湖のばば』は子ども向けですが、きびしい暮らしぶりがしっかり描かれています。
すこしだけ紹介すると、十三湖畔の村に生きた母の物語。
10人以上の子を産みながら、無事に成長できたのが半数以下。
農家でありながら、子ども達にお腹いっぱいに食べさせてあげることができないことや、医者に診せてあげられない母親の嘆き。
いたいけな子どもの命が病気によって消えることは、母親にとって、生涯わすれられない悲しみに違いありません。
史実に基づいて描かれていて、私はお参りするたび、苦労した先人を思います。
でも、川倉地蔵を、「怖い」とか、「気味がわるい」とか、そういう声もあります。
何人もの方の口から聞きました。
じつは夫もそうなんです。
夫の母は元気なころはよくお参りに来ていたのに、息子の夫はお堂に入るのは気が重いと。
夫の母が川倉地蔵にお参りしたのは、30代で亡くなった娘(夫の姉)がいたからです。
着物をやはりここに納め、お焚き上げをしたそうです。
どちらかといえば、男性は苦手な方が多いのかもしれませんね。
そして敏感過ぎる方も。
けれど私は、津軽人の心のふるさとだと考えていますので、怖いとは感じたことがありません。
逆に、生きていることの有難さを気付かせてくれると思っています。
人形堂-全国的に珍しい黄泉の祝言
人形堂が別棟にあります。
「お写真を撮らせてください」と、
ここでも手を合わせました。
扉を開けると、正面で地蔵菩薩が迎えてくれるのです。
未婚のまま早逝した息子のために、花嫁人形を納める。
津軽にだけ根付いた風習です。
冥界婚(めいかいこん)といって、
せめてあの世では妻を娶らせたいという
親心なのでしょう。
同じような意味合いで、
山形県に「ムサカリ絵馬」、祝言の絵馬を奉納する地域もあります。
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川倉地蔵のほか、つがる市にある『西の高野山 弘法寺』にも独身で亡くなった人に伴侶をおくる『黄泉(よみ)の祝言』の供養をしています。
戦後になってから、このように人形を納めるようになりました。
戦争で亡くなった息子のために、なにかをしてあげたい。
そんな母親の思いが叶うようになったのは、戦後しばらくして、津軽の女性たちに多少の余裕ができてからではないでしょうか。
初めてお参りしたのは10年前、そのとき私は胸がじんとしました。
ガラスケースの花嫁人形に、亡き人の写真が添えられて、さらにはお菓子とともに、キューピー人形もあったのでした。
あの世で夫婦となり、温かな家庭を築いて、子どもも儲けてほしい。
そんな親心に、涙がこみあげました。
この地は、石器時代の「妻(さい)の神遺跡」や縄文遺跡があります。
1万年も昔から人が居住していたそうです。
お堂から外にでると、湖に通じる小道があって、そこにも赤い風車と、ちいさな地蔵が並んでいます。
そして、満州開拓団として大陸に渡り、戦後、帰国できなかった人たちを慰霊するための碑もありました。
今年の大祭は、8月6日から8日です。
県内外からたくさんの参詣者が来ます。
赤い風車がからからと回る音を耳に、「またお参りに来ます」と思いながら、地蔵堂を後にしました。
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