弘前市の郷土史家で漫画をお描きになる知坂元先生の新作『まんが卍の惣領主 信建』を読みました。
信建はのぶたけと読みます。
弘前藩の藩祖・津軽為信公の長男ですが、信建公は藩主になることなく没し、その死はなぞに包まれています。
しかし信建公こそが弘前城の築城を指揮しただろうという説が、この本のテーマ。
弘前城の謎に迫る知坂元先生の新著を紹介します。
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弘前城は1年でできたのか
敷地は広く14万9千坪、49万2千㎡と広くて、散策するとたっぷり半日を要します。
江戸時代に建てられた天守をはじめ、門ややぐらも往時のまま。みちのく北辺の城郭としては破格の規模といえるでしょう。
さて、公式な藩の記録によると、弘前城は2代藩主津軽信牧公が、慶長15年(1610)より工事を開始して、翌年の慶長16年に完成させたとあります。
しかし当時は、ショベルカーやトラックがあるわけでなく、すべて人力。
たくさんの津軽の農民が山を崩し、土や石をもっこで運んで働きに働いたとのこと。
地形を生かして公園内は起伏に富み、濠を二重にめぐらしていて、城内にはかつて武器庫や侍屋敷に、大奥や侍女の部屋、客人をもてなす大広間もあったので、いくらなんでも1年ではむりがある。
本によると、熊本城は10年、姫路城は9年、彦根城は20年の歳月をかけて築城されそうです。
なので弘前城も何年もかかったのではないだろうかと、疑問を投げかけて。
知坂先生は小学校の校長先生を務められ、在職中から陸奥新報などに郷土史を漫画にして発表されてきました。
ダンディなお兄様です。
2年ほど前に、私が連載している「青森の暮らし」城下町通信に登場をして下さいました。
豊臣方だった信建公
津軽為信公を弘前藩の藩主として、お墨付きを与えたのが豊臣秀吉でした。
それまで津軽地方は、南部氏のいわば植民地のような状態だったとか。
為信公は南部氏に先んじて京に上り、秀吉に謁見が叶った。
しかし、お家存続のために3男の信牧公を徳川家に仕えさせています。
どちらが覇者となっても良いように。
はい、歴史は徳川家康に味方して、江戸幕府が成立し、豊臣家は滅んでしまう。
一方、徳川の世になっても弘前城には大阪城より信建公が持ち帰った秀吉像がひそかに祀られていました。
弘前城を守るご神体として、本丸の鬼神である舘神としてまつられて、今も現存。
慶長11年に信建は33歳で病死しているけれど、徳川の命を受けた忍びに暗殺されたという説もあるのです。
そして結果的に、2代藩主は徳川家側の3男・信牧公になりました。
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巖鬼山神社に信建の鰐口
その岩木山の山懐にあるのが、巖鬼山神社(がんきさんじんじゃ)。
こちらの神社に保存されていたのが「奉納 大檀那津軽惣領主宮内大輔藤原臣信建」と記された鰐口です。
漢字が多くて読み難いのですが、意味は「津軽の惣領主である信建が奉納します」ということ。
『卍の惣領主信建』は 知坂玄先生の新刊です。
まんがなので、楽しく歴史を知ることができますね。
まとめ
藩祖である津軽為信公の後継ぎに長男・信建がならなかったのはなぜだろう。
信建が夭逝したなら、その息子の大熊がなるはずなのに、なぜに3男の信牧公が2代藩主になったのか。
関ヶ原の戦いの後、勢力図を塗り替えた影響が津軽にまで及んでいたことに驚きました。
先生、歴史の参考になる本を、わかりやすく描いて下さり有難うございます。
2018年10月21日に更新しました。
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