弘前市には三十三もの禅宗のお寺がならぶ禅林街が茂森にあります。
江戸時代の初めに町割りをしたとき、2代藩主の津軽信牧(のぶひら)公が、お寺を結集させて、弘前城の守りとしたそうです。
最も格式が高く、由緒も古いのが一番奥に建つ長勝寺。
私は毎年のように参拝してきましたが、今回は御朱印をいただきました。
釈迦如来をご本尊として、歴代藩主により大切にされてきた長勝寺についてお伝えします。
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種里城時代の寺
立派な三門で、かつて女優の吉永小百合さんがCM[大人の休日倶楽部」で佇んでいました。
仏語の三門解脱の意から、三門と呼ばれています。
どっしりと格式を感じさせる門の奥に、本堂や庫裡(くり)があります。
このお寺は室町時代後期に鰺ヶ沢町に建てられ、江戸時代の初期に弘前に移築しました。
ですから、柱など遺構が400年以上も前のものとなります。
どうして鰺ヶ沢町かというと、藩祖である津軽為信(つがるためのぶ)公は、津軽氏を名乗る前は大浦為信でした。
大浦氏が築城した種里城は鰺ヶ沢の海を望む高台にあり、湊も支配していたことでしょう。弁財船や北前船が寄港し、にぎわっていたそうなので。
さて、長勝寺は亨禄元年(1528)に種里城主であつた光信の死後に、その霊を弔うために現在の鰺ヶ沢町であるに創建。
慶長15年(1610)に、2代藩主信牧(のぶひら)公が、弘前城を築城した際に長勝寺を遷したのです。
ですから室町時代後期の建築様式を見学することができ、北東北において貴重なお寺といえますね。
若君のミイラのお寺として有名
戦後の話ですが、報恩寺に埋葬されていた津軽 承祐(つがる つぐとみ)公のご遺骨を長勝寺に改葬しようと掘り起こしたところ、ミイラ状態であることがあるわかり、ニュースとなりました。
承祐公は数えの19歳という若さで身罷り、それは藩主になる前。
母君がその死を悼み、炭を御棺に敷きつめ、防腐処理をされて埋葬したそうです。
上の写真はそのとき実際に見つかった柩(ひつぎ)。
当時は今と違い、座位で柩に納めました。
天宝9年(1838)にお生まれになって、安政2年(1855)でご逝去。
そのため弘前藩における津軽家の血脈は絶えて、熊本の細川家から養子を迎えました。
三門解脱の最初の門は、黒門。
道が狭いので、工事車両が通るときなんどか壊れていますが、なんどでも修理して藩政時代とそれほど変わらない禅林街です。
桜並木がつづくので、4月25日ころ満開になって見事。
太宰治の最初の妻だった小山初代のお墓も禅林街にあります。
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ためのぶ号が巡回
長勝寺の庫裡です。
御朱印や見学の受付はこちらの入り口からどうぞ。
改修工事を終えて4年ほど経ち、こけら葺きの屋根の葺き替えは全国から職人を集合させての大工事でした。
私の御朱印帳に、釈迦如来と書かれた流麗な墨書きを頂きました。
大切にして、御守りとします!
ところで、個人で旅行される方は、弘前駅から津軽藩ねぷた村やりんご公園をまわる巡回バス のためのぶ号が便利でしょう。
駅から乗車して100円です。
レトロな繁華街も経由して名所を巡る「ためのぶ号」です。
弘前市西茂森1-23-8
℡0172-32-0813
御本尊は釈迦如来
本堂や庫裡のほか歴代藩主や奥方の霊廟、そして五百羅漢が並ぶ中に鎮座する厨子も見学可能です。
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